【山下美智代コラム】愛を抱く鶴「韓国孤児の母·尹鶴子物語」(1~4)

昔、韓国(大韓帝国)が日本に併合され、日本の支配を受けていた時代がありました。その時代は1910年から、第二次世界大戦を終え、韓国が光復する1945年まで続きました。韓国は植民地から解放せれましたが、韓国人の心は深く傷つき、日本に対する恨み、反日感情はその後も深い根となって残りました。

そんな時代に、韓国の孤児達の母となり、「韓国孤児の母」「木浦の母」と呼ばれるようになった一人の日本人女性がいます。その人のお話です。名前を田内千鶴子(たうちちずこ)、韓国名を尹鶴子(ユン・ハクジャ)と言います。

波に揺られて

千鶴子は日韓併合したすぐ後の1912年、日本の高知県の若松町という小さな海沿いの町で生まれました。7歳の時、父徳治が朝鮮総督府木浦市庁の役人として韓国に来ることになったので、両親と共に海を越え全羅南道木浦にやってきました。

その頃の木浦は、韓国で採れた米や綿、塩などを日本に送るための港町でしたから特に日本に対する反発心の強い地域でした。でも日本人町で暮らす千鶴子は全くそんなことを知らずに育ちました。

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幼少期の千鶴子

木浦に来てから母春が教会に通うようになり、そんな母の影響で千鶴子もクリスチャンになりました。「多くの人を愛したい。自分のこの身のある限り、沢山の人に神様の愛を分け与えたい。」いつしか千鶴子の心にそんな思いが芽生えていきました。

千鶴子は成長し、木浦にあるミッション系の貞明女学校に通うようになりました。18歳になったそんなある時、悲しい出来事が起こりました。一家の頼りである父が急に病気で亡くなってしまったのです。父の仕事で韓国に来たのですから残された二人は日本に帰らなくてはなりません。しかし、もう韓国での生活にもすっかり慣れ、千鶴子が女学校途中であったこともあって、春が助産婦の仕事をしながら二人は韓国に残ることにしました。

千鶴子は20歳になり貞明女学校を卒業して母校で音楽の先生になりました。そして3年ほど働いた時、子宮の病気になり卵巣という赤ちゃんができるための大切な部分を手術して切除しなければならなくなりました。

お医者さんからは、「もう子供はできないかもしれないね」と言われてしまったのです。いつか、幸せな家庭をきずいて沢山の子供たちに囲まれて暮らしたいと思っていた千鶴子の夢が叶わなくなり、やりがいを感じていた学校での音楽の先生も辞めなくてはならなくなりました。千鶴子は二つの試練に悲しい気持ちで過ごしていました。

出会い

ある日、女学校時代にお世話になった音楽指導の先生から「生きがいのある仕事をしてみないかい?共生園という孤児院で日本語の先生を探しているんだよ。そこの子供たちは笑わないんだ。その子供たちに笑顔を取り戻させてあげてほしいんだ。良かったら一度行ってみてくれないかい」と頼まれたのです。

千鶴子の心に明るい灯がともりました。「わたしにできることがあるのならなら、やってみたい」という思いでさっそく共生園にでかけてみました。

共生園は木浦市の儒達山(ユダルサン)という岩山の麓にありました。そこは孤児院とはいっても拾い集めてきた木で作ったような手作りのみすぼらしいバラック小屋で、中は三十畳ほどの部屋が広がっているだけで他には何にもありません。障子や襖もなくもちろん畳などありません。藁でできたカマスと呼ばれる米や穀物を入れる袋が引いてあるだけで電気もガスもありませんでした。

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共生園の始まり(1928)

そこには、尹致浩(ユン・チホ)という背が低くやせっぽっちのみすぼらしい青年伝道師と40人の子供たちが暮らしていました。チホは貧しい家庭に育ち、学校にも行けなかったのですが、アメリカ人の宣教師に出会い、その助けで学校を卒業し、18歳で伝道師として福音を伝える為に木浦に来たのでした。そこで彼は橋の下で身を寄せ合って暮らす孤児たちに出会い、家に連れて帰り、7人の子供たちと一緒に暮らし始めたのです。

当時、韓国人の暮らしは貧しく、木浦の町にも貧しさのあまりに子供を育てることができずに子供を捨てていく人が後を絶ちませんでした。しかし、その頃はそんな子供たちを養護してくれる孤児院という施設などありませんでしたから、通りには行く当てのない孤児達で溢れ、道端で餓死していく子供たちもたくさんいました。チホはそんな子供たちを集めて一緒に暮らすようになったので、村の人たちからは「乞食大将」と呼ばれるようになりました。

チホは「この可哀そうな子供たちを見て、神はどれ程胸を痛めるだろう。みんな同じ神の子たちなのだからこの迷える子羊たちを集め、みんなで一緒に暮らそう。一緒に暮らせばみんな家族だ」と一人で手作りで家を建て「共生園」という名前を付け、19歳の頃から孤児院を始めました。

孤児たちのためにゴミ拾いをしたり、物乞いをしたりと、今日生きるのがやっとという生活でありながらでも「愛があれば明日のことなんか心配いらない。なんとかなるさ」と苦労もいとわないで子供たちを育てていたのです。

千鶴子はそのような貧しい暮らしぶりを見て、胸が痛むとともにそんな貧しくてみすぼらしい姿であっても、澄んだ目をキラキラ輝かせながら笑顔で子供たちの世話をしているチホ青年や、暗く表情も見せない子供たちを見て、「自分にできることがあるなら、何かしてあげたい」という誰かのために生きれるという希望を感じました。千鶴子はすぐに日本語を教えることにしました。日本の支配を受けていた韓国では公用語として日本語が使われていたのです。

千鶴子は日本語を教えるだけでなく歌も教えましたが、子供たちはまるで笑うことも知らないようにいつも暗い表情をしていました。親に捨てられ供たちの心は深く傷つき、人を恨み、信じられなくなっていました。おまけに、自分の名前も日本の名前に変えられた子供たちにとって日本人である千鶴子に対する反発心は強く、なかなか懐いてくれませんでした。

それでも千鶴子は笑顔で話しかけながらたくさん歌を教えました。すると、少しづつ子供たちのこわばった顔から表情が現れ、笑顔がもどってきました。歌っている時だけはひもじさや親に捨てられた悲しさ、辛さを忘れることができるのです。

しばらくして、千鶴子は子供たちの世話の手伝いも頼まれるようなり、チホは一生懸命に子供たちの世話をする千鶴子の人柄がとても気に入り、愛するようになっていったのです。

ある日チホは千鶴子に「二人で子供たちの親にならないかい」と結婚を申し込んみました。千鶴子も澄んだ瞳を輝かせながら大きな夢を語り、子供たちの為に働くチホを尊敬し、惹かれていましたが、すぐに答えることができませんでした。

千鶴子は悩みました。日本人と韓国人の間にある溝が千鶴子の心にのしかかってきたのです。日本の親戚からは大反対されます。自分は朝鮮総督府の役人の娘。おまけに自分にはもう子供はできないと言われているのです。チホも「日本人と結婚するなんて考えられない」と周囲の人たちから大反対されていました。

千鶴子の悩んでいる姿を見ながら、答えをだせずにいる娘に春は、「結婚というものは国と国がするものじゃないんよ。人間と人間がするものなんよ。天の御国じゃ、韓国人も日本人も何の区別もないんよ。みんな同じ、兄弟姉妹なのよ」と、結婚の後押しをしてくれたのです。

千鶴子は「子供ができなかもしれないと言われた私にとって、この子供たちを育てることは神様からの恵みかもしれない。どんなことがあっても母としてチホさんと一緒に子供たちを育てていこう」と結婚を決意したのです。1938年千鶴子が25歳、チホが29歳の時でした。

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尹致浩と田内千鶴子結婚(1938.10.15)

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