【山下美智代コラム】愛を抱く鶴「韓国孤児の母·尹鶴子物語」(1~4)

韓国人になる決意

チホと結婚して、千鶴子は子供たちの母親になるために自分も韓国人になろうと心に決めました。次の日から千鶴子は着物を脱ぎ、チマチョゴリをまとい、日本食を止めてキムチなどの韓国食を食べ、韓国語を覚え韓国語で話すようになりました。

しかし、母になると言ってもたやすい事ではありません。いきなり40人の子供たちの母親になるのですから、朝から晩まで子供たちの食事の準備や洗濯、身の回りの世話など目の回るような忙しさです。休む暇などありません。

おまけに、孤児たちの世話は並たいていのことではありませんでした。誰からも躾してもらったことのない子供たちは家の中も外も裸足です。ご飯をお箸で食べることも朝顔を洗うことも知りません。そんな子供たちに生活習慣や神様に感謝して食事をいただくことも教えてかなくてはなりません。

チホが出かけている間は一人で園を守らなくてはなりません。その間に子供たちどうしで喧嘩をしたり、問題を起こすこともあります。「どうすれば、みんな神様から愛されていること、一人一人が大切な存在なのだと解ってくれるのだろう」と心を痛めることも多くありました。

それでも、千鶴子は決して叱ることもなく「みんな家族なのよ」と子供たちをなだめ、ふところに抱きました。そんな千鶴子にいつしか子供たちは「オモニ(お母さん)」と呼ぶようになり、ある子は日本語で「かあちゃん」と呼ぶようになりました。

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千鶴子のオルガン伴奏で歌う孤児達

そうして一年ぐらい経った時、千鶴子に想像もしなかった子供ができたのです。「もう子供はできないだろう」と言われて諦めていた千鶴子にとっては嬉しくて夢のようでした。最初に女の子が生まれ清美(きよみ)と名前を付け、次に男の子が生まれ基(もとい)と名付けました。

千鶴子は可愛くてたまりません。大きな宝物を得て、さらに生きがいができたのです。どんなに大変な毎日でも仕事を終え、我が子の寝顔を見ればホッとして力がでるのですから、千鶴子はさらに張り切って働きました。

しかし、二人めの子供の基が少し大きくなり、もの心つくようになった頃、園の子供たちから、「お前は本当の子じゃない。橋の下で拾ってきた捨て子だ」といじめられるようになったのです。どの子も同じように愛し育ててきたつもりの千鶴子でしたが、園の子供たちからみれば本当の親に育てられている清美と基が羨ましくてしかたなかったのです。

千鶴子は、みんなの本当の母親になろうと二人の我が子も孤児たちと同じように園で育てることにしました。自分の子供だからといって特別に声をかけることも抱きしめてあげることこともできません。

千鶴子にとってそれは大きな試練でもあり、二人の子供たちにとっても、自分の本当の親なのに「お母ちゃん」と言ってだきつき甘えることもできず、理解できない、淋しい思いを耐えなくてはなりません。千鶴子にとってもそんな我が子の姿を見るのはつらいことでしたが、差別することはできません。千鶴子は孤児たちみんなにとってお母さんなのですから。

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尹致浩と千鶴子と子供達(1928)

私は韓国孤児の母

1941年日本が戦争を始めました。第二次世界大戦です。1945年に日本が敗戦し終戦を迎えました。韓国は日本の支配から解放されました。もう日本の植民地ではないのですから日本人は自分の国に帰ることになりました。

千鶴子はチホや園のことを考えると、どうしても韓国に残りたい気持ちでしたが、日本に帰らなくてはなりません。また、春も日本に帰りたいと願うので千鶴子はお腹に3人目の子供がいましたが、1946年に二人の子供を連れて春と高知に帰りました。

高知に帰っても千鶴子はチホと園の子供たちの事ばかり考えました。「共生園に帰りたい。私がいない中でチホさん一人でどうしているかしら。子供たちはどうしているだろう。翼があるのなら今すぐにでも飛んで帰りたい。でも、年老いた母を一人日本に残してはいけない。」

千鶴子は悩みました。考えれば考えるほど子供たちのことが気にかかり、園に帰りたい思いが募っていきました。どうしても子供たちを忘れることのできない千鶴子は1年後、母が止めるのを振り切って、生まれたばかりの3人目の子供をつれて木浦に帰る決意をしました。

しかし、韓国に帰ると言っても帰る手段がありません。戦争を終えたばかりの日本と韓国は国交というものがなく日本人が韓国に渡ることは簡単ではなかったのです。それでも、何とか韓国に渡ろうと3人の子供を連れて密航し、再び共生園に帰ってきたのです。

「オモニだ。オモニが帰ってきた。」子供たちは口々に叫びながら千鶴子に駆け寄ってきました。千鶴子はそんな子供たちを抱きしめながら「帰ってきて良かった。やっぱり私の決心は間違っていなかった。チホさんと子供たちがいるこの韓国こそが私の国よ。日本はもう私の国ではない。私はこれから日本人であることを捨てよう」と心に決めたのです。

それから千鶴子は日本名の田内千鶴子ではなく、韓国名で尹鶴子(ユン・ハクジャ)と名乗るようになりました。しかし、いくら千鶴子がユン・ハクジャと名乗っても木浦の人たちにとってはやはり憎い日本人なのです。
  
ある日、園の子が血相を変え、慌てて帰ってきました。村の人たちがチホを殺す計画を立てているというのです。理由は妻の千鶴子が日本人だからというのです。千鶴子はうろたえましたが、子供たちは「オモニが日本人だって誰にも手出しはさせないよ。僕たちが守ってあげる」と言ってくれました。

そこへ村人たちが千鶴子を殺そうとやってきました。千鶴子に石を投げつけ、襲い掛かろうとする村人に、チホは「落ち着いてくれ。話せば解る。話をしようじゃないか」と、止めようとしましたが、村人たちの日本人に対する怒りはおさまりません。止めようとするチホに対しても石を投げつけるのです。その時、子供たちが石や棒を持って千鶴子とチホの前に立ちはだかったのです。

「やめろ。この人は僕たちのアボジとオモニだ。」「オモニを殺すなら、僕たちも殺せ」と泣きわめき村人たちに対抗しようとしました。子供たちに守られた二人を見て、村人たちはもう何も言えなくなりました。

千鶴子は、子供たちと抱き合いながら泣きました。そして、「一生この国を離れない。私は、この国に骨をうずめよう」とさらに強く決意しました。そして、このことは一生忘れることなく千鶴子の心を支え続けました。

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【山下美智代コラム】愛を抱く鶴「韓国孤児の母·尹鶴子物語」(1)

【山下美智代コラム】愛を抱く鶴「韓国孤児の母·尹鶴子物語」(2)

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