【山下美智代コラム】愛を抱く鶴「韓国孤児の母·尹鶴子物語」(1~4)

巣立ち

こうして子供たちは立派に成長し、園から巣立っていくようになりました。千鶴子はそんな子供たちを見ながら誇らしく思いました。

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千鶴子と孤児達

ところが、孤児たちに対する世間の目は冷たかったのです。

そのころの韓国社会では、両親がいて身元がしっかりしていないとなかなか仕事がみつからず、会社に就職することが難しかったのです。両親のいない園の卒業生はちゃんとした仕事に就くことが難しく、厳しい仕事やお給料がなかなか貰えなかったりと、生活していくことが大変だったのです。こんなに立派ないい子たちなのに世間はそれを受け入れてくれません。千鶴子は悔しさと悲しさでいっぱいになりました。

たとえ孤児であったとしても社会に認められ、そして子供たちが世の中で堂々と生きていってほしい。そんな思いから千鶴子は技術を身につけ、仕事ができるようにと職業訓練学校を設立することを決意しました。

それからというもの、千鶴子は学校設立のために一生懸命募金活動を始めました。町の有力者や知り合いのあちらこちらに学校の設立の話をして寄付を募っていきました。そんな千鶴子の熱心な活動が広がり1963年8月15日韓国政府は、「田内千鶴子さんは、私たちの子供を守り育ててくれた人類愛の人だ」ということで日本人で初めて文化勲章国民章を授与しました。

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韓国孤児3000人の母·田内千鶴子(1963)
 
活動に明け暮れていたある日、日本から一通の便りが届きました。80歳になる母春が、老人ホームに入所したという知らせでした。千鶴子は胸がつまって泣きました。自分はたった一人の娘なのに、母を日本に残して韓国に戻ってきてしまったのです。

「私のことを一番理解してくれ、いつも私の事を応援してくれたのに、私はお母さんに何も恩返しすることができなくて、ごめんね。お母さん。」「お母さんもこの海を見ながら私のことを思って、胸を痛めていますか。この海は高知にも繋がってるのに。あぁ海の向こうに高知が見える。」

そして「お母さん。あなたなら、こんな私の生き方を分かってくれますか。私はあなたの娘です。今こうして沢山の孤児たちのために生きていることを喜んでくれますか。私はあなたからもらった愛を、この子供たちに注いでいきます。」と海を見つめ、とめどなく涙が溢れてきました。

千鶴子は母を捨ててまで選んだ道なのだから、今していることを必ずやり遂げなくてはと、さらに心情を投入し、子供たちや園の発展、職業訓練学校設立のために奔走しました。すると今度は、木浦市の議会が千鶴子に木浦市民賞を与えることを満場一致で決め、1965年10月1日に初の木浦市の市民賞を授賞しました。

千鶴子はこんな賞はいらないと何度も断りましたが、さらには1967年には日本政府から、外国人の為に尽くした人に対しては、異例の藍綬褒章が与えられました。ただ、園を守り、子供たちを立派に育てようと必死で生きてきた千鶴子にとっては、自分がそんな賞を貰うより子供たちにたとえ鉛筆の1本であったとしてもそれを貰えた方がありがたかったのです。

千鶴子の中には「私は、立派なことをしようと思ってやってきたわけではなく、ただ夫の帰りを待つために共生園を守ってきただけ。ほんとに苦労したのは子供たちなのだから。」という思いがあったのです。こうして賞をもらってからは周囲の関心が高まり園は有名になり、千鶴子は社会支援団体の活動へとさらに責任は大きくなり、忙しくなっていきました。

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岸信介首相訪問(1964)

園を守って

そして、千鶴子はついに体をこわして倒れてしまいました。働きすぎるくらい働いてもうこれ以上働くことは難しいと医師に言われるくらい千鶴子の体は悪くなっていたのです。

肺がんになってしまった千鶴子は、それでもベッドの中で「一度だけでいいから、健康な体を下さい。共生園の子供たちのための働きはまだ完成していないのです。この責任を果たせるように健康と信仰を与えて下さい」と祈りました。

しかし千鶴子の体は回復することはありませんでした。千鶴子は病院のベッドよりも子供たちのいる園に帰りたいと言って共生園に帰りました。そして、1968年10月31日子供たちに見守られる中、静かに天に召されました。最後のにうわごとで「梅干しが食べたい」と日本語で呟きながら。

木浦の母

こうして日本人でありながら多くの迫害と困難を乗り越え、3000人以上の孤児たちを育てた千鶴子の死にその悲しみが木浦だけでなく全土に広がりました。千鶴子は木浦市民によって市民葬で行われ、全国から3万人もの人が千鶴子を見送りました。「その日、木浦は泣いた」と新聞に報道されました。

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木浦市民葬に参列した3万人の市民と子供達(1968.10.31)

亡くなった後も、日本で天皇から勲五等宝冠章を授与されました。尹鶴子(ユン ハクジャ)として生きた田内千鶴子の愛は、天の国では国境も何もない。どの子も同じ、ただ愛したいから愛してきた母としての妻としてのひたむきな愛でした。

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【山下美智代コラム】愛を抱く鶴「韓国孤児の母·尹鶴子物語」(1)

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