36年間日本の奴隷としての人生を強要されたとしても、少なくとも私としては、内村という人物に出会っただけで、それ以上の価値はあったと思う。」〜咸錫憲〜
日本のキリスト教思想家として有名な内村鑑三(1861〜1930年)は、日本の大東亜戦争参戦と天皇崇拝を断る反戦運動を主導し、目に見える建物としての教会ではなく聖書の内容の実践を追求する無教会主義を訴えた人物でもある。
貧しい武士の家系に生まれ、敬虔なクリスチャンになった内村は、33歳のときにアメリカに留学した。米国で神学を勉強していたある日、彼は死後墓石に刻む碑文を以下のように書いた。
われは日本のため、日本は世界のため、世界はキリストのため、すべては神のため
1905年、42歳のときに内村は、「失望と希望(日本国の前途)」というタイトルの文章の中で次のように述べた。
私共に取りましては愛すべき名とては天上天下唯(ただ)二つあるのみであります。その第一はJesusでありまして、その第二はJapanであります。私どもはこの二つの愛すべき名のために、私どもの生命を献げようと欲(おも)う者であります。
私どもはキリストを離れて真心をもって国を愛することができないように、また国を離れて熱心にキリストを愛することはできません。私どもがキリスト教を信じた第一の理由は、それが私どもの愛するこの日本国を救うの唯一の能力(ちから)であると信じたからであります。
心から日本を愛したゆえに、彼は日本の将来について深く憂慮した。
私は私の生命よりも私が愛するこの日本国の救われんことを望む者であります。
日本が朝鮮を併合して、満州に続き、中国まで侵略していた頃、内村は反戦・平和運動を展開した。戦争初期頃、日本軍が連戦連勝する最中、日本国民は熱狂的な支持を送ったが、内村は彼らを厳しく批判した。
決して祝うことではない。日本帝国主義は東洋の隣国に悪いことを行った。東洋の隣国を侵略すれば神様が天から火雷を下すだろう。天皇も人であるから私は天皇にお辞儀をしない。
彼はこのような挑発的な内容を発言して憚らなかった。日本国民が戦勝気分で浮かれあがっている状況下、あえて戦争に反対する声を上げるということは普通の人には真似できない大胆な行動であった。
しかし、この発言によって、彼は厳しい迫害を甘受ぜさるを得なかった。人々は彼を「非国民、売国奴だ」と非難しながら職場から追い出したが、彼は初志を貫徹し、平和主義者としての所信を曲げなかった。
そんな中、内村の大予言は彼が死亡した15年後に正確に広島、長崎原子爆弾(火雷)投下で現実化した。日本が敗戦すると、人々はやっと内村先生こそ「時代の良心であり、予言者である」と称え始めた。
内村は、聖書を土台として日本を建てるという一念で、「聖書之研究」という雑誌を創刊し、若者たちの心を呼び覚ますために尽力した。
1924年以降は、東京の朝鮮人留学生、金教信(キム・キョシン)、咸錫憲(ハム・ソクホン)、宋斗用(ソン・ドュヨン)、鄭相勳(チョン・サンフン)、梁仁性(ヤン・インソン)、柳錫東(ユ・ソクドン)などが「聖書之研究」の活動に加わった。
ハム・ソクホンは「36年間日本の奴隷としての人生を強要されたとしても、少なくとも私としては、内村という人物に出会っただけで、それ以上の価値はあったと思う」と告白したほど、内村鑑三の影響は大きかった。
後ほど、ハム・ソクホンは韓国の定州にあった五山(オサン)学校の教師になり、救国人材の育成に尽力した。そして、内村鑑三の門下生たちは新日本の建設の主役となった。