「隣国への足跡」は、韓国で36年間生活した産経新聞の黒田勝弘特派員の論説集兼エッセイである。
著者は、「日韓の歴史」あるいは「日韓相互理解」を言うからには必ず日本人の視点も加えるべきだと言いながら「日本の足跡を見つけるためには、韓国人の見解だけでなく、日本人の見解も必須であり、それらを合わせることによって、初めて歴史の真実が明らかになる」と強調する。
彼が長い間働いていた産経新聞は、韓国内では極右派のイメージが強く、黒田記者も「右翼」と見なされたことが多い。しかし、基本的に人は自分が嫌いな国でそう長く生きることはできない。自らも韓国であまりにも長い間生きてきたため、韓国を離れることができないという。
全体は15章で成り立っている。そのテーマは、ハーグ密使事件、日露戦争のはじまり、竹島問題、閔妃暗殺事件、広島と韓国人、李方子妃、総督府庁舎の解体、韓雲史と梶山季之、総督府と国立博物館、朝鮮戦争と松本清張、祖国帰還運動の悲劇、金嬉老事件、KAL事件と金賢姫、金日成と朴正煕等などである。
最初に取りあげられるのは、いわゆるハーグ密使事件である。日露戦争でロシアに勝った日本は、朝鮮半島に対する支配権を強めた。1905年にはいわゆる日韓保護条約が結ばれ、日本は韓国を日本の保護国とした。これに内心反発した韓国側は、1907年にハーグで開かれた万国平和会議に3人の密使を送り、日韓保護条約の無効、不法を訴えた。これがハーグ密使事件である。
これに対し、怒った日本側は高宗を退位に追いこみ、息子の純宗(すんじゅん)を皇位につけるが、3年後には韓国を併合してしまったのだ。結果的に「ハーグ密使事件」は、高宗など韓国側の思惑とは逆に、韓国の日本への併合を促したという結果を招いた。歴史の皮肉のひとつである。
日露戦争の本質は、朝鮮半島の支配権をめぐる日露間の争いだった。日露が戦端を開いたのは、韓国の仁川沖である。日本艦隊は仁川沖に停泊していたロシア軍艦コレーズ号とワリヤークを撃沈した。かろうじてロシアを打ち破った日本は朝鮮を支配するようになり、日露戦争後、「本日天気晴朗なれども波高し」という東郷平八郎の揮毫をもとにした石碑が巨済島に建てられた。
竹島は日露戦争と関係が深い。竹島が日本領(島根県)に編入されたのは、1905年2月。まさに日露戦争のさなかだった。日本海海戦は5月下旬のことである。日本側は、竹島の日本領への編入は1910年の韓国併合に先立つから、竹島の領有権は日本にあると主張し、韓国側は、竹島は古来、韓国の領土であり、韓国がすでに保護国となっていた時代に日本によって奪われたものだ、と主張している。
著者は、「不思議なことに韓国は、竹島に多くの人工施設を作り、年間20万人以上の人間を送り込み、島を“満身創痍”にしておきながら島を「天然保護区域」に指定し、天然記念物扱いしている。これではアシカも島には寄り付かない。今からでも遅くない。日韓共同で島を「ユネスコ世界自然遺産」に登録申請しようではないか」と提言する。
朝鮮王族で日本の陸軍中佐となり広島で被爆死した李鍝(イウ)殿下。遺体は京城(現ソウル)に運ばれ、8月15日の玉音放送1時間後に陸軍葬が営まれた。また、皇族出身で「日韓融和策」による政略結婚で李王朝最後の皇太子妃となった李方子(りまさこ)さんは戦後も韓国に残り、福祉事業に半生をささげた。その葬列は1キロに及び、「わが国の王妃」として韓国人に見送られた。
李方子妃に「日韓の過酷な歴史を背負われ、日本人として全力を尽くしていただきありがとうございました」と御礼を申し上げたかった。そして、韓国人たちには「亡国の恨みを越えて、異國の王妃をこんなにも温かく見送っていただきありがとうございます」と話したかった。
最後の15章で、著者は、「金日成を勝った」「朴正煕の大韓民国」を話す。日本は解放後、韓半島の南と北に朴正煕と、金日成という遺産を残した。ところが、朴正煕は日本を受け入れ活用することにより、国づくりに成功した。それに比べて、金日成は日本を拒否することにより、失敗した。これが今日、韓国と北朝鮮の格差がされたものである。
結局、韓国は過去の(日本という)の遺産を生かして、しかも新しい日本を加えることで成功した。ところが、金日成の北朝鮮は過去の日本を完全に否定してしまった。それとともに、自らの「抗日の過去」のみ執着して安住し、さらに新たな日本も引き続き拒否したせいで国家経営に失敗し、国民を飢えた。解放後から現在に至るまで、韓半島での南北の発展の格差に、この「日本」が大きく作用したと著者は主張する。
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