NHKスペシャル「緒方貞子」 8月17日 午後9時00分~10時29分
“小さな巨人”と称えられ、その類いまれなる行動力と決断力が、今も世界の尊敬を集める、世界を舞台に活躍した素晴らしい一人の日本人女性がいる。緒方貞子さん、85歳。1991年から10年に渡って国連の難民救済機関UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)のトップを務め、“戦争が生み出した弱者”である難民を救うため、世界を駆け回った。ある時は防弾チョッキを身につけて紛争地に自ら足を運ぶなど、徹底した現場主義を貫いた緒方さん。
難民一人一人の声に耳を傾け、一人でも多くの命を救うために、前例にとらわれない決断を次々と下していった。人道支援の歴史を変えたとも言われる、大胆かつ勇気ある行動と決断。そこには、これまで明かされることのなかった、緒方さん自身の、幼少期からの戦争を巡る経験や、人生の節目節目での意外な人々との出会いも、大きく影響していた。
緒方貞子は1927年東京で生まれた。1931年4歳の時、5.15事件で曾祖父・犬養毅が青年将校らに銃殺される事件がおきる。 父・豊一は外交官として日中戦争時、香港で総領事を務めていた。豊一は中国との和平を実現しようと、時の外務大臣・宇垣一茂に直訴した硬骨漢であった。戦後の1948年、聖心女子大学に入学した貞子は、そこで学長のマザー・ブリットに出会い大きな影響を受ける。
ブリットは学生たちに、「自立せよ」「灯を掲げる女性となれ」「鍋の底を磨くだけの女性になってはいけない」「結婚のことを考えるくらいなら勉強しなさい」と言い続けた。ブリットは学生たちの心に女性の新い生き方を刻み続けた素晴らしい教育者だったという。
1951年、米国・ワシントンにあるジョージ・タウン大学院に留学。 彼女のテーマはなぜ日本は戦争したのか、なぜ軍の暴走に歯止めをかけられなかったかであった。1958年に帰国。彼女のテーマは「満州事変と政策の形成過程」という論文として結実する。 彼女の達した結論は政府・軍・関東軍の「無責任の体系」により戦争へと突入したというものであった。
1968年に結婚して子育て中の貞子の家を訪問した女性がいた。あの高名な市川房江である。市川は国連に日本の女性を送り込む努力をしてきた。市川は国連に行く予定だった女性が都合悪くなったので、国際基督教大学で国際関係学の講義をしていた貞子に目をつけたのだった。
迷う貞子の背中を押したのは父・豊一である。「行きなさい。あとは何とかなる」と。1968年、41歳の貞子はニューヨークの国連本部に勤務。「台所から国連へ」と自ら言い、積極的な発言で注目をあびる。1976年、国連日本政府代表部で働く。そして1991年、63歳で世界初の女性国連高等弁務官となり、2000年まで務める。その間、1991年の湾岸戦争でのイラクとトルコの国境での180万人のクルド人難民問題に直面。
国内の避難民は難民ではないから保護すべきではないとするUNHCRに対し、ルールを守ることより命を救うことが大事だとして国内避難民にも国連の支援を得て救援活動を行う。1992年のユーゴスラビア紛争では、銃弾の飛び交う中で難民支援を続けた。そして、UNHCRだけでは難民は救えないと、国連安全保障理事会に乗り込んで訴えた。これは国連安全保障理事会では初めてのことであった。
1994年のルワンダ虐殺にともなう100万人のルワンダ難民問題では、スイス・ジュネーブの国連会議で国際部隊の派遣を要請。しかし、派遣に応じる国がないとみると、ゴマ難民キャンプがあるザイール軍1500人を派遣させて難民の治安を確保した。アフリカにはサダコ・オガタの名前が付けられている子どもたちが何人もいるという。
現在85歳。現在世界では2000万人の難民がいるとされる。長い難民支援を続けてきて、緒方は暮らしの整備こそが大事だとして「人間の安全保障」の大切さを主張している。
NHKスペシャル「緒方貞子」 8月17日 テーマ曲「明日に架ける橋」(サイモン&ガーファンクル)をヘイリーが歌う。
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