【書籍/昭和天皇は戦争を選んだ12】配給量を一般国民と同じにし粗末な食事をとっていたか

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豪華な食事

育鵬社教科書は書いている。「敗戦前後の誰もが生活が苦しかったころ、天皇は配給量を一般国民と同じにせよと命じ、事をとっていました」と。そんな証拠は、どこにあるのだろうか? 昭和天皇自身が一九四七年六月三日の記者会見で次のように、語っている。

記者「現在、遅配、欠配で食糧事情が悪く、陛下も代用食をおとりになっていると伺っていますが、どんなものをおあがりになっていますか」

天皇「いろいろなもの。うどん、すいとん、いもなど種々雑多な代用食を食べている。」

ジャーナリストのマーク・ゲインの「 ニッポン日記」は敗戦九カ月後の一九四六年五月十九日、「米よこせ」大会のデモ隊の「代表が十二人、三時間ほど(皇居の)前門内に入」ったこと、「皇居内で見たことなどを報告した」と記録する。

彼等は料理の名前を並べたてた。それらの皇室用の貯蔵庫から運ばれてきた食料品もー毎日の新鮮な乳、鶏、豚、卵、バター。『天皇や役人どもはこんなものを食っているんだ。やつらに「腹が減った」という言葉の意味が分かると諸君は思うか?』

皇族の調理場

敗戦後の暴露雑誌と言われた『真相』が国会図書館にある。第四号に「皇族は何を食っているかー宮城デモ報告記ー」が掲載されている。

五月十二日の「米よこせ世田谷区民大会」の人々が宮城デモを行って「天皇の台所を拝見したい」といった。「通されたところは、天皇の台所ではなく、宮内省の皇族、高等官用の調理場であった。」「大ブリが、平目が貝が、いる。」「牛肉があるぞ。」「変なものがある。子供たちは魚の者一凝りを指して『変なもの』と云った。

十四日御タ食、皇族十三方という食事献立表。その献立表を見て、あまりの豪華さ、余りのケンランさに驚き、かつはアキレテものをいう元気も、腹の立つ元気も、すべて消耗してしまったらしい。

お献立とは『お通しもの』平貝、胡瓜、ノリの酢のもの。『おでん種物」まぐろ、ハンペン、ツミレ、大根わさび。『さしみ』まぐろ。『焼き物』『から揚げ』ヒラメ。『御煮付け』 竹の子、ふき。『みそおでん』ねぎ、さといも。他、二品、なるほど、これでは二合一勺(配給量)でも充分であろう。代用食で充分であろう。

では、『芦田均日記』の一九四八年四月十三日の記載は、どうなっているか。「皇太后、両陛下、皇子皇女(当時六人)・・侍医が三十人、料理人が六十人という数。」

つまり、天皇一家九人のための食事を料理する人が六十人もいたのである。本当に「配給量を一般国民と同じに」し「粗末な食事をとっていました」のなら、六十人もの料理人は全く必要がない。本当に天皇一家が「うどん、すいとん、いもなど(国民と同じに)種々雑多な代用食を食べている」だけ、だったのなら、六十人のうち、たいていの料理人は暇を持て余して遊んでいたのではないだろうか。

天皇(皇族)は常に「御仁慈」の人物であり、常に「民をおもひ」「民と同じにしてくれ」という人物であり、公正で高潔な人格者である、というポーズ、美しい衣装をとまとわねばならない。なにしろ、終戦の詔勅において昭和天皇は(旦言している、「朕は常に爾臣民と共に存り」と。

これをいかにもプロパガンダだと分かるような方法にて世上に洩らすこと」をし、国民にも、それは本当だと思わせるように、巧妙にしくんだ宣伝を常に続けていかなければならない。「配給量を一般国民と同じに」し「粗末な食事をとっていました 」とか、「うどん、すいとん、いもなど種々雑多な代用食を食べている」などと・・・。

地下道行路病者と一緒に新聞記事に

ここに、一九四六年四月四日の朝日新聞がある。昭和天皇夫妻がその子どもたちと葉山の別荘に行き、海で喜んで波と戯れている家族写真である。その写真の左上には「浮かばれぬ『地下道行路病者』という記事がある 。

「捨てたぼろぎれような死体、その地下道のもう少し先には両足を小きざみに震わせて瑞いでいる行路病者ーこんな風景も「浮浪者の巣」上野駅では珍しいことではない 。」

この時の、天皇一家の葉山別荘へのレジャー旅行については、どんな乗り物を使ったか、その理由は何かを木下道雄侍従次長は正直に書いている。のちに、自分の日記が公開されるとは、木下は考えたことはなかったようだ。「四月一日、両陛下は宮廷列車にて、義宮及び三内親王は午後電車(一両特別列車連結)にて成らせらる。これーつは遊山気分を国民に感ぜざらしむ為と、一つは自動車数の節約の為なり。」

国民が、昭和天皇の決断で招いた戦火によって、家を失い、親兄弟を失い、食べるものもなく、餓死するものも珍しくなかった時である。天皇は「常に国民とともにある」「常に国民のことを思っている無私の御仁慈の人」と、宣伝し続けているのだから、別荘に遊びにいくにしても、絶対に天皇一家の「遊山気分を国民に感」じとられてはならない。そのため偽装工作もしたのであった。

しかし、 朝日新聞の紙面は、見事に、天皇一家の「遊山気分」と、路傍でぼろぎれのように餓死・病死しても、引き取り手のないまま上野駅、 区役所、警察をたらい回しにされる「天皇の臣民」の死体を同一紙面に収めていた。編集者が意図したものではなく、偶然だと思うが・・・・。

しかし、育鵬社教科書やマスメディアは、敗戦後七十年経っても、 事実ではない真っ赤なウソで作り上げられ、美化された天皇(皇族も含め)像を、巧妙な、あからさまにはプロパガンダだと分かるような「宣伝的にならぬ方法にて世上に洩らすこと」を二十一世紀の現在も続けている。育鵬社教科書やマスメディアの報道は、歴史を偽造し、虚飾に満ちた昭和天皇像を作り上げ、未来の主権者を洗脳していく。

          
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【書籍/昭和天皇は戦争を選んだ①】天皇は日中戦争拡大派だった

【書籍/昭和天皇は戦争を選んだ②】満州事変と天皇 - 天皇は、皇軍の独断越境を許した

【書籍/昭和天皇は戦争を選んだ③】天皇は対英米戦を避け得る道を拒否した

【書籍/昭和天皇は戦争を選んだ④】天皇は開戦に満足していた

【書籍/昭和天皇は戦争を選んだ⑤】天皇は緒戦の勝利に舞い上がった

【書籍/昭和天皇は戦争を選んだ⑥】天皇は焦って軍に決戦を要求した

【書籍/昭和天皇は戦争を選んだ⑦】天皇は近衛の早期降伏論も拒否した

【書籍/昭和天皇は戦争を選んだ⑧】天皇は一九四五年五月ころから、やっと終戦を考えるようになった

【書籍/昭和天皇は戦争を選んだ⑨】天皇は原爆が投下されても降伏を考えなかった

【書籍/昭和天皇は戦争を選んだ⑩】一億総繊悔、悪いのは戦争を選んだ国民

【書籍/昭和天皇は戦争を選んだ11】天皇は真珠湾奇襲の責任を東条に押し付けた

【書籍/昭和天皇は戦争を選んだ12】配給量を一般国民と同じにし粗末な食事をとっていたか