【戦後70周年歴史発掘】ジョージ・キザキ氏「私はマッカーサーの直属通訳官だった」

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(WILL 2015年9月号)日本敗戦後の占領期に来日、軍属としてGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に勤務し、マッカーサーの直廣通訳官を務めた経験を持つ日系二世の男性が、現在も東京に暮らしている。ジョージ・キザキ氏、八十六歳。占領終結後、長らく商社マンとして世界中を飛び回り、引退後は各地でポランテイア活動などをしながら戦後日本の栄枯盛衰を見守ってきた。

常軌を逸した日本人差別

カリフォルニア州ロサンゼルス市生まれのキザキ氏がGHQの最年少通訳官として来日したのは、十九歳の時だった。明治生まれの父親は熊本の廻船問屋の長男で、蒸気機関車の技術を学ぶため、下駄と行李と麦藁帽子で渡米。そこで津田梅子らとともに留学に来ていた日本人女性と知り合い、結婚。そのまま住み着いてしまった。

キザキ氏は戦前にー度、十四、五歳の時、日本に遊びに来たことがある。当時、片道ー万四千円。サンフランシスコ一横浜一神戸一上海を結ぶ竜田丸という船だった。

横浜港で親戚が待っていてくれた。本郷にあったその人の家に下宿させてもらい、人生初の祖国を体験する。初めて見た日本は、「えらく貧乏な国だった。病院のお見舞いが卵六個という時代だった」とキザキ氏は回想する。

東京でも、七割方の日本人は下駄か草履だった。パンとコ一ヒーとハムエッグのプレックファーストから、いきなりご飯に味噌、納豆、たくあんの朝ごはんに変わったのには慣れなかった。

二週間ほど滞在したのち帰国するが、ー年もすると戦争が始まり、「敵性国民」としてカリフォルニア州内のツールレイク収容所に監禁されてしまう。

その当時、米国の日本人差別は常軌を逸していたと聞いていますが?

キザキ:収容所に入れられると同時に、資産を凍結されました。街を歩けば、石を役げられる。ホテルのトイレを使わせてもらえない。「ジャップお断り」の貼り紙を出すレストランすらありました。

それはやはり、「敵性国民」だからということで?

キザキ:同じ敗敵国とはいっても、ドイツ人やイタリア人は収容所に入れられていない。また、同じ黄色人種といっても中国人や朝鮮人に対する差別はそこまで酷くなかった。自分はよく在日の友人たちに話すんです。昔のアメリカのジャップ差別と較べれば、あなたたちの受けた朝鮮人差別なんか差別じゃないよ。あなたたちは収容所に入れられたこともなければ、資産を凍結されたこともないでしょう?と。

……あとから考えれば、当時の日本人差別はアメリカの国策だったんだ。日清、日露と勝ち進み、有色人種でありながらどんどん領土を拡大していた日本の存在が、米英は面白くなかった。そして、焦りと脅威を感じていた。それでー九三十年代から四十年代にかけて、激しい排日運動が起こりました。いまのうちに日本を叩いておきたいという米国政府の意志が、自国民を日本人差別に向かわせ、逆に日本人にアメリカを憎ませて戦争へと駆り立てていったのだと思います。

収容期問は終戦までですか?

キザキ:終戦の翌年に解放されました。収容所を出ると、今度は「赤紙」がきました。「軍属(Civilian employee)として召集する」という内容だった。部隊は、米軍最強と言われた日系人部隊、すなわち四四二部隊です。……米軍の戦争でいつも最前線に送くられるのが日系人部隊、黒人部隊、中国人部隊でしたが、なかでも常に先頭に立って最も果敢に戦うのが四四二部隊だった。どこへ行ってもジャップ、ジャップと差別され、我慢に我慢を重ねた結果が大和魂に火をつけた。それが四四二部隊の強さの秘密であったと思います。

マッカーサー専属通訳官に

召集令状には「希望赴任地」という欄があって、「JAPANと書くなよ」と父親から注意されたという。ところが最初の赴任地が、奇しくも「書くな」と言われた日本だった。そして、GHQの通訳官として二度目の来日。保安、諜報、檢閲などを司る諜報第二部(G2)に配属された。今度は軍用船フリーグランド号だった。

せめてもの救いは、戦争が終わっていたことだ。キザキ氏らG2所属の軍属の宿舍は現在の東京夕ワーの下、芝大門辺りにあった。戦前は帝国ホテルと同系列の、かなり広い中華レストランだったという。なかでは四、五十人ほどが暮らしていたが、G2の職員はそれぞれが機密任務にかかわっており、「顏を合わせても挨拶もしない。お互い親しく口を利くことはなかった」とキザキ氏は回想する。食堂でも、皆ー人で黙々と食べる。軍属同士の横の繋がりはまったくなかった。朝食のあと、部屋に戻ると伝令が来てオーダーシートを置いてゆく。

《○月○日、○○(上官の名前)から○○(本人の名前)へ。○○社の労組委員長○○の行動を確認せよ。一週間以内に報告のこと》と、たとえばそんなことが書いてある。G2の軍属は、皆オーダーシートに従って活動していた。本部への通勤は、アメリカ製のウィリスというジープだった。

抜群の日本語能力を買われたキザキ氏は、やがてマッカーサー元帥直属通訳官となる。キザキ氏の日本語が堪能だったのは両親から習ったこともあったが、ロサンゼルスに開校し、現在も同地に存在する羅府中央学院に通ったからだ。

羅府中央学院といえば、北米初の日本語学校として有名ですね?

キザキ:そう。全部で二、三十人の生徒が日本語を習っていました。全員が日系二世だった。校庭には日本からこっそり運んできた桜の木が植えてありました。担任は、のちに日本航空の専務から会長となつた伊藤良平先生でした。伊藤先生は昼は羅府中央学園で教えながら、夜は日本軍のために米国内の情報収集活動のようなことをしていたようです。

一緒に日本語を学んだ学友のほとんどは、同じくGHQにスカウトされました。およそ十万人いたGHQ要員のうち、約二万人が自分のような日系人を中心とした通訳官でした。当時、GHQには法律、政治、経済、宗教、思想、文化、教育、燃料、電気、水道、食糧……等々と、ありとあらゆる分野に通訳官がいました。私は宗教を含めた思想担当の通訳官でした。

GHQ通訳官の鉄則

「何も考えず、右から左へ言葉を翻訳するだけでいい。話の内容はー切憶えるな。相手の顔も記憶してはいけない」

キザキ氏は、上官からそう叩き込まれた。それがGHQ通駅官の鉄則だった。

北は北海道の稚内から南は鹿児島の天文館まで、いたるところにGHQの行政支所があり、通訳官がいた。キザキ氏の言うように、その数およそ二万人。

マッカーサーの專属通訳官は、キザキさんを含めて何名くらいいたのですか?

キザキ:十五人ほどだったと思います。元帥の周囲に常駐する職員はごく限られていました。……マッカーサーのもとに確実に文書を届けるための暗号があった。《HQ and HQ United States 8th Army No. APO500.》

文頭にこう書くと、直接元帥のもとに届く。「Dear Sir」や「Dear General」などの手紙は、まず届かない仕組みになっていました。……情報処理に関して、マッカーサーはまさにコンピュータのような人だった。日本国内はもちろん、ワシントン、ニューヨーク、ロサンゼルス、ハワイ、グアム、朝鮮、台湾、旧満州、シンガポール、香港、フイリピン……と北米から太平洋、そして日本が占領した東アジアの広域にかけて,ありとあらゆる場所からすべての情報がマッカーサーのもとに集約され、彼はそのいちいちに的確な回答を与えていました。

占領期問中、マッカーサーはアジア太平洋地域を飛び交うすべての政治・軍事惰報の扇の要であり、ハブだったのです。……休日といっても観光などはー切せずに、自分の部屋で仕事をしていました。占領が八年で終わったのは、マッカーサーの猛烈というより、超人的な仕事ぶりがあったからです。

……そんなふうでしたから初対面の時、質問にすぐに答えられず婉曲な言い回しをしていたら、「Answer Yes or No! 私が聞きたいのはそれだけだ。それができないなら帰ってくれ」と怒鳴られ、縮み上がつた経験があります。

GHQ内にも共産主義者が

キザキ氏が直属通訳官として配属されたー九四九年当時、マッカーサーGHQの日本統治において最大懸案は、野火のように広がる共産主義勢力をどう鎮火させるかだった。共産主義者は、GHQの内部にすら存在した。

GHQ内左派だった民政局(トニー・ホィットニー局長)のなかには、ドイツのフランクフルト大学に起源を持つ「フランクフルト学派」と呼ばれる隠れマルクス主義者が多く潜り込んでおり、四六年に公布された日本国憲法の草案には日本人学者も含めた多くのフランクフルト学流がかかわったことは、現在、広く知られるようになった。

マッカーサー自身は撒底した反共主義者だったが、占領直後から憲法が公布された四六年あたりまでは、左傾化を民主化と言いくるめた民政局の御與に来せられてしまった感が強い。

マッカーサーがはっきりと路線転換を打ち出したのは、二・ー ゼネスト中止を決めた四七年だった。

マッカーサー令によって強制連行された伊井弥四郎全官公庁共闘委員長はNHKラジオのマイクに向かい、「声が腹れていてよく聞こえないかもしれないが、緊急しかも重要ですからよく間いて下さい」で始まる有名な涙のゼネスト中止発表を放送した。

「私はいま、マッカーサー連合国軍最高司令官の命により、ラジオをもって親愛なる全国の官吏、公吏、教員の皆様に明日のゼネスト中止をお伝えいたしますが、じつに、じつに断腸の想いで組合諸君に……」

これ以降、GHQの「逆コース」は四九年のレツドパージで日本共産党員とシンパー万人の公職追放へと繋がっていく。

G2軍属だったキザキ氏が通訳と同時に命じられたのが、ソ連や中国などから戻ってくる復員船の監視だった。終戦当時、ソ連国境周辺や朝鮮、樺太、千島には、軍民合わせて二百五十万人以上の日本人がいたが、うち百万人以上がソ連軍や中国軍の捕虜となり、強制労働に従事させられたりした。

そのなかには、共産主義に洗脳されて復員する兵士も少なからず存在した。あるいは、ごく少数ながら戦前戦中に自ら志願して国際共産主義運動に身を役じた日本人が、復員兵を装って帰国するケースもあった。

キザキ氏は、ポレックスの十六ミリ映写機やスピグラの大判カメラを携え、舞鶴、宇部、宇品(広島)、小倉、佐世保等の港で、復員船から降りてくる共産主義者と出迎えの日共党員を見張っていた。

皆毅然としていた帰還兵

一番強く記憶に残つているのはどこの港ですか?

キザキ:やはり、帰船の数が多かった舞鶴です。……あの当時東京から京都まで片道十五時間もかかった。汽車には必ずRTO(Railroad Transportation Office=鉄道輸送局)という名のGHQ専用車両がついて、我々はこれに乘って移動した。占領からー九五五年頃まで、このRTOが国鉄を運営していました。

駅から舞鶴港までの移動は?

キザキ:軍のジープです。港では、GHQのテントのなかで復員船が入ってくるのを待ち構えていました。五千トン級の船なら、一万人からの引揚者がひしめき合っていた。……埠頭には若い米兵が大勢立っていました。そして、降りてくる復員兵らの背中に文字抜き板を当て、白いぺンキで「PRISONER」(捕虜)とー瞬で書くのです。

……病院のパジャマのような真っ白い人、お片脚のない人、全身包帯でぐるぐる巻きの人、「とうとう帰ってきたぞー」などと叫びながら口いっぱいに砂を詰め込んでいる気の触れてしまった人……とまさに十人十色だった。シべリアから帰ってきた復員兵は分厚い外套を着込み、腹に飯盒やら水筒やらをぶら下げていました。

共産主義に洗脳され、赤旗を振り回し、インターナシヨナルを歌いながら下船してきたー群もありました。彼らは陸に上がるなり、「日本人民のために鬪うぞ!」などと絶叫していた。ー方、まったく洗脳を受けつけなかったらしい人々もいて、別のところからは「天皇陛下万歳!」の大合唱も起こりました。

GHQはテントのなかで復員兵の一人ひとりを身体検査し、身元植認と同時に思想点檢を行っていた。キザキ氏もそこにいた。キザキ兵隊たちはまず、頭からコップ二杯分のDDTをふりかけられたあと、テントに入って来る。長い虜囚生活でポロポロの軍服姿だったが、日本兵は皆毅然としていた。ー歩、テントに入るや、○○一等兵、只今帰還致しました!」と踵を揃えて敬礼する。敗れたとはいえ、日本の兵隊さんはやつぱり立派だ、と改めて思いました。

細かい尋問を経てようやく解放されると、外には家族はもちろん、地元の愛国婦人会や少年少女たちがタスキをかけ、日の丸を振って大勢で出迎えていた。誰かが手動の蓄音機で、「異国の丘」(シぺリア抑留者の間で歌われていたという作者不詳の歌)のメロディーを鳴らしていたこともあった。

共産主義者の見分け方

そのなかに、日本側の共産主義者が混じっていたというわけですね?

キザキ:はい。在日朝鮮人を含む、隠れ日共党員たちです。彼らが待っていたのは、主に国際共産党組織のコミンテルンからの密命を帯びて帰国する、高レべルの日本人コミュニストたちでした。そういう重要任務を担っているわけですから、もちろん彼らは赤旗を振り回したりしません。向こうで亡くなった日本兵になりすますなどして、こっそりと戻ってくるわけです。

では、どうやってその共産主義者を見分けたのですか?

キザキ:ですから、出迎えの群衆のなかの誰が隱れ日共党員かを見極めておくことが重要だった。事前に写真や映像を照合して、「あいつはこの前も来ていた」とか、「この男は不自然なほど何度も振り返って後ろを警戒している」などと言って、出迎えの日共党員の炙り出しを行っていました。

他にも、隙れ日共党員は特に激しく旗を振る、「日本」ではなく「祖国」と言うなどの特徴があった。彼らが船から降りてくる誰と接触するかで、国際共産主義運動のエージェントを見極めることがある程度、可能になりました。

共産主義者と目星をつけたあとはどうするのですか?

キザキ:私の仕事はそこまでです。重要人物と当たりをつけたコミュニストに対する尾行は、フロリダ警察やシカゴ警察から派遣されてきた本職の特搜隊が遂行しました。日系人が多いのはもちろんだが、他の東洋系アメリカ人もいた。彼らには特に名前はついていなかったが、我々は"Dog Tag"(認識票)と呼んでいました。

出迎えの日共党員たは、どうやって帰還するコミュニストを判別していたのですか?

キザキ:最大の謎はそこでした。……短波で流れていた北朝鮮の平壤放送日本語版のなかに暗号が紛れていたのではないか、というのが特搜隊の見立てでしたが、結局、解明されることはあきせんでした。

筋金入りの共産主義者を尾行したのはGHQばかりではない。旧陸軍中野学校出身者が多かった日本の公安も、総力をあげてコミンテルンのエージェントを割り出そうとしていた。しかし、あくまでも監視対象としてである。GHQは共産主義を許容していたから、ソ速や中国で共産主義教育を受けたからといって直ちに逮捕するわけにはいかない。同時に、日本政府兵には甘かつた。このような帰還した日本人コミュニストが社会復帰して役所や企業に潜り込み、労組の關士として戦後の労働運動の中核を担っていったのだ。

死を覚悟した朝鮮戦争

そんなふうにして、キザキ氏は首都と引揚船の着く港を百回以上往復したが、途中、共産主義の本当の脅威が日本列島の目前に迫ったことがあった。一九五〇年の朝鮮戦争である。

同年六月、三十八度線を軍事突破した金日成の北朝鮮軍は、たちまちのうちに韓国の首都ソウルを落とし、朝鮮半島の南端まで到達する。直後に羽田から飛び立ち、ソウル近郊を秘かに偵察したマッカーサーは、約七万人の連合軍を敵の背後に上陸させる仁川上陸作戦の着想を得る。マッカーサー自身が「成功率は〇.〇二%」と言ったほど大胆での無謀な睹けだった。

九月に入り、作戦を実行に移すため部隊の移動があった。東京にいた兵士たちは、夜闇に粉れて座間に移動。キザキ氏もそのなかにいた。

やはり通訳官として

キザキ:マッカーサー直属の第八軍情報兵のー人としてです。当時の朝鮮は、日本語は通じても英語は通じなかった。だから主な目的は通訳ですが、銃器も携えていた。通訳兼戦闘員です。……ああいう時の記憶というのは絶対に薄れない。六十年以上経ったいまでも、鮮明に思い出すことができます。

座間キャンプから六トントラックに乘せられ、米軍の秘密基地のあった現在の横浜ノースドツクに着きました。ノースドックの周辺は全部倉庫だった。三階以上の建物はほとんどありませんでした。その場所に米陸軍の基地があることは、GHQのなかでも極秘にされていました。

というのも、米軍は全面降伏した日本軍がじつは降伏を認めておらず、隙を突いて再蜂起する可能性を捨てていなかったからです。つまり、横浜ノースドツクは日本軍ゲリラ部隊による突然の叛乱に備えて潜伏した米兵の秘密基地だったのです。

待機兵たちと合流したわけですね?

キザキ:そうです。そこから六十〜七十人乗りのLST(組み立て式の戦車揚陸艦)に乘り込みました。グレマリン社製の高速エンジンを積んだ船で、船ごと輪送艦に移るのです。兵士たちに上陸地点が仁川と告げられたのは、輸送艦が洋上に出た九月十四日の午後だった。奇襲作戦は完全極秘のうちに決行されなければならなかったからです。

当時の港湾労働者には在日朝鮮人が多かったので、もし北朝鮮と繁がっている朝鮮人コミュニストに情報が漏れたら、船に機雷を仕掛けられるなどの心配があった。正直、私もこの戦争で死ぬのだろうと思っていました。

マッカーサーの再評価を

そこまで厳重な警戒態勢にありながら、それでもやはり情報は漏れた。仁川近海には無数の機雷が仕掛けられ、水中爆破を繰り返したという。

浦賀でさらに大型船に乗り換えた部隊は佐世保経由で翌早朝、仁川近海に着いた。ここで先に待機していた船、そしてあとから来た船と合流し、大船団を組む。こうして連合軍の仁川上陸作職は決行された。

キザキ:奇跡的な大成功でした。連合軍とはいっても、実際に戦ったのはほとんど米兵でした。横浜のノースドツクから出て行ったアメリカの若者のうち六人に一人、およそ五万人が犠牲となって朝鮮半島の赤化を防いだのです。そしてその時、「若者だけを前にやるわけにはいかない」と言って先頭に立ったのが、当時すでに七十歳の元帥でした。

それなのに、現在の韓国人にはマッカーサーと米軍に対する感謝の気持ちがまったくない。何年か前に仁川を訪れたところ、元帥の像の周りには花も飾っていなかった。まったくもって恥ずかしい限りです。

マッカーサーに対して再認識の必要があるのは、日本人も同様である。もし占領軍の最高司令官がマッカーサーでなかったら、いまごろ日本は分断国家になっていたかもしれない。天皇制は廃止となり、昭和天皇は死刑となっていたかもしれない。

そして、日本のー部は共産主義国家になっていたかもしれない。冗談ではなく、これらの可能性は本当にあったのだ、とキザキ氏は力説する。

キザキ:日本占領後、ソ連、中国、イギリス、オーストラリアは天皇制の廃止を主張していた。もしマッカーサーが最高司令官でなかったら、ほぼ確実に天皇制は廃止になっていたはずです。

分割統治をー番望んだのは誰ですか?

キザキ:問違いなく、スターリンでしょう。日本分割統治論を強硬に主張していました。北海道・東北をソ連、関東から関西までをアメリカ、中国、九州をイギリス、四国を中国が統治するという四分割統治論や、他にも三分割統治論、五分割統治論など様々な提起がありました。スターリンの腹は、とにかくアメリカにー番いいところを与え、その裏で自国の領土拡大を図ろうというものでした。しかし、「それをやるならアメリカは原爆を使う」と言って断固拒否したのがマッカーサーだったのです。

もしマッカーサーではなく、アイゼンハワーやアイケルバーガーが最高司令官だったら、そこまで強硬な態度がとれたかどうかは疑わしい。もし分割統治が実現していたら、日本は隣国のような分断国家となり、国土のー部は赤化していたに違いないのです。

「十二歳」発言の真意

トルーマン大統領からの突然の解任を受けたマッカーサーが、羽田飛行場から専用機バターン号で米国に帰国したのは、ー九五ー年四月十六日のことだった。飛行場までの沿道を、小旗を振って見送る二十万人の人々が埋め尽くした。

しかし「新しい神=マッカーサー」のイメージは、その翌月には早くも崩れてしまう。五ー年五月、米上院軍事外交委員会での「日本人十二歳の少年である」といったマッカーサーの発言、いわゆる「十二歳発言」である。これによって、日本人のマッカーサー熱は一気に冷え込んだ。三井、味の素、日本光学工業の民間三社が共同で「十二歳ではありません」と新聞広告を出した話は有名だが、前月まで日本の救世主だったマッカーサーの偶像は真っ逆さまに転落した。「マッカーサー=人種差別主義者」のイメージも、ここに端を発したものと思われる。

しかし、「私の眼から見ても実際、当時の日本は十二歳だったと思う」とキザキ氏は言う。

キザキ:軍事力こそ欧米列強と肩を並べていたものの、ほかの社会インフラと言えば、まだ帝国ホテルの横で汚穢屋が農家に売るための糞尿を集めていたような時代です。汚穢屋の曳く牛馬の糞を拾って肥料や燃料として売る商売までありました。

コレラやチフス等の伝染病が流行するのもしょっちゅうだった。そういう状態を指して、マッカーサーが「日本はまだ成長途中の少年だ」と言ったのは間違いでも何でもない。

また、同じ議会で彼は、日本人について「勝者にへつらう傾向がある」とも述べていますが、これも事実です。敗戦を迎えた日本人は、ー夜にしてマッカーサーを'新しい神'として迎え入れた。崇拝の対象を新しい支配者にすぐに変えられたのは、日本人の精神年齢がまだ若かった(十二歳だった)証拠です。マッカーサーは'新しい天皇'でした。

「マッカーサーは人種差別主義的に日本人を見下していた」という人もあますが?

キザキ:私には到底信じられません。たとえば、ルソン島における日本軍との戦關で自軍機が燃破されたのを知ったマッカーサーが「日本人が戦關機に乘れるはずがない。操縦しているのはドイツ人だ」と報告したという話がありますが、そんなはずはない。彼は日本軍の強さをよく知っていました。

そもそも米軍のなかで、日系人部隊である四四二部隊こそが、当時'世界最強の部隊'と呼ばれた部隊だったのです。彼に差別感情があったとすれば、平均的なアメリカ人のそれと較べてずつと少ないほうだったと思います。

だいたい、キリスト教は差別を許さない。典型的な清教徒だったマッカーサーの口癖は"一にに聖書、二にアメリカ憲法に忠実であれ"でした。マッカーサー令によって米国から緊急輸入されたDDT、ぺニシリン、そして食糧……。これらによって、廃墟のなかの日本は急速に立ち直り、今日の発展を迎えることができたのです。その割には、現在の日本人にはマッカーサーに対する感謝の念が足りない。終戦直後のように神と崇めよとは言いませんが、歴史的に見てもう少し正当な評価が与えられて然たるべきだと思います。

冷静な理論家でありながら、ー方で正義感の強い激情家でもあったマッカーサーは、部下を前に演説をぶちながら興奮してくると、手にしていたステッキやパイプで力任せに机を叩いたという。しかし、パイプはマッカーサーのトレードマークとでもいうぺきコーンパイプではなかつた。

キザキ:マッカーサーは自分の神格化に、神経質なほどきをつかっていた。コンパイプは、軍人としてあえて荒々しさを演出するための小道具でした。屋内で使っていたのは、メシラムなどの高級プランドのパイプです。

そのようにして破損したステッキとパイプを貰い受けて修復し、キザキ氏は現在も大切に保存している。(インタービューアー 野村旗守)

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